かつては、歌の中に「わが君・わが背」とあれば女性の歌と素直に考えていましたが、現在では、女性がうたったという形で男性が作った歌もあると考えられています。
名前が記された女性の歌は限られているのですが、その中で、旅に出た女性3名が知られています。
1人は、大伴坂上郎女。1人は大伴旅人の妻、大伴郎女。そして、高市黒人の妻です。
坂上郎女の旅先での歌は何首かありますが、大伴郎女の歌はありません。
高市黒人の妻の歌は、夫の歌に応えたものですが、その夫の歌に、次のように「猪名野は見せつ〔見せた〕」とありますから、猪名野へ妻を同伴したことを疑う必要はないでしょう。。
高市連黒人が歌二首
我妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ (巻3・279)
いざ子ども 大和へ早く 白菅の 真野の榛原 手折りて行かむ (280)
黒人が妻の答ふる歌一首
白菅の 真野の榛原 行くさ来さ 君こそ見らめ 真野の榛原 (281)
男性は国司に任命されて各地へ行くことがありました。その時ツマを同伴したのかどうか、わかっていません。
高市黒人がどこかの国司に任命された時、ツマを同伴したのか、それとも、休日にツマを連れて旅行に出たのか、正確なことは、万葉集の記録だけではわからないのです。
越中国守となった大伴家持に次のような歌があります。万葉集巻18の最後を飾る歌です。
墾田地を検察する事に縁りて、礪波郡主帳多治比部北里が家に宿る。
ここに忽ちに風雨起こり、辞去すること得ずして作る歌一首
荊波の 里に宿借り 春雨に 隠り障むと 妹に告げつや (巻18・4138)
雨宿りをして帰りが遅くなることを「妹」に伝えてほしいという歌ですが、この「妹」を妻のことだと考えて、家持の妻は、この時までに越中にやってきていたという学説があります。
歌の内容をどこまで信じるかは、読者次第です。
あなたはどう考えますか。
万葉ロマン塾 塾長 関隆司
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